高徳院について

大昔のことですが、数少ない石碑・寺伝・郷土史・地名等から考察すると、おもしろいことに当時のようすが想像できます。好きな人は御参拝時に語らいましょう。

1250年前から続く血脈のルーツは命がけの修験者にあり、同胞を幾人も失いながらも万民豊楽と国家安泰を祈った男たちのドラマがあったようです。その尊い背中を見に来てください。日のあるうちは市中を歩き民草に分け入り、生涯をかけ全国の霊場を回る廻国修行を行い、日暮れには山を切り開き護摩を焚いていた修行僧たちの背中に報いるためにも…先人に恥じない生き方を考えよう!そんなまじめな気持ちと御朱印帳をもって是非とも一度はお参り下さい。住職がいればあつく語ってくれます。参拝者の皆様には大太鼓で祈祷をしてます。参拝料や祈祷料はお賽銭なのでお気軽な気持ちで大丈夫です。

770年頃〜1387年頃古文書紛失により定かではありませんが、創建は地域の古き祭礼の始まりや地形から、長尾川の源流に建立された修行道場 根久保高徳院が始まりだと思われます。1300年前、清澄寺が開かれその末寺として開かれた記録が1行だけ500年前の古文書に出てきます。
1387年頃、当山派統一により真言宗となりました。
836年直後天台宗清澄山の末寺の記録があります。
1524年(大永4年)現在の本尊不動明王を頼り、里見氏目代正木大膳上時茂らが根久保高徳院に安房国安泰必勝祈願をする。10倍の軍勢をはねのけ、時茂が聖徳太子ゆかりの里見氏国宝「虚空蔵菩薩」を授かる
1544年(天文13年)時茂は第60世根久保高徳院住職源心のもと出家をして高法と名を変え、聖徳太子ゆかりの里見氏国宝「虚空蔵菩薩像」を高徳院に寄進する。
1553年(天文22年)童子姿の虚空蔵菩薩が光る龍と共に源心住職の夢告に立ち、現在の展望台を有する虚空蔵堂が大きな洞窟の中に建立されました。それからというもの毎年里見氏代表として正木時茂は初詣に来山し、晩年は手紙で年頭のあいさつをするようになった記録があります。節分には「句会」を開いていた記録があります。光る龍と虚空蔵菩薩の夢告伝説
 これが現在の正月の初日の出祈祷祭と節分大祭の起源です。特に正月の行事は、今でも7日間の断食に元朝0:00の水行と護摩修行が高徳院住職の大切なお勤めです。水行の水汲みは地元の人々で行われ、洞窟内の虚空蔵堂で朝まで護摩を焚き、初日の出が昇る頃には護摩の火が海水浴場に移されて盛大に初日の出巨大護摩行事となります。早朝なのにもかかわらず住職の「千倉観音出開帳加持祈祷」には毎年長蛇の列を作るほどです。里見八犬伝は江戸時代に作られたファンタジーなんですが…最近はテレビでもやらなくなったし年齢を感じます。昔はいつも人形劇とかやってたしな…またやらないかな(笑)
1618年頼善住職「入定」 いつのころかは定かではないが、こんな半島の先端から日本全国の霊場や国分寺を歩く修行「廻国修行」が行われていたことが石碑から読み取れる。仲間を失いないながらも帰山した頼善住職は即身仏となり疫病退散と万民長久を祈り、大銀杏(いちょう)のふもとにて地中で即身仏となり塚が作られました。廻国は長い歴史の中で幾度も行われたようで、石碑は虚空蔵堂敷地内に仏塔が一棟、現在の高徳院墓所に地蔵尊が三体あり、いずれも歴史が異なり合計4回は歴代住職と共に全国を歩いている。壮絶なドラマがあったのだろう。其の尊い背中に恥じない生き方をしたいものだ(鉄炮塚の記載より)
1703年元禄大地震、続けて余震で1707年富士の宝永大噴火が起こり、大災害・疫病、政治の乱れが起こりました。まるで現在の災害やコロナ禍がこの時代に日本国を襲った最悪の状況下で江戸幕府を味方につけ、一揆が起こり、多くの命が失われました。そこには刀を取らずに、全国を歩いて国家民草の先々の繁栄を祈るというドラマがありました。
1709年廻国が行われました。
1884年1884年岩屋虚空蔵略記(現存)が作成され、大正時代に比叡山・清澄山・龍光山が日本三大虚空蔵として歴史が紐解かれ、清澄山管長猊下により改めて高徳院岩屋虚空蔵菩薩が開眼されお寺は繁栄し仏法は隆祥しましたが。その後は戦時の混沌に陥り衰退し多くの宝物を失うも細々と信仰は続き、略奪から古文書を守ったという伝承と共に昭和42年に岩屋虚空蔵略記が高徳院に奉納され本書の歴史が紐解かれる。別巻の存在も記されているが現存は一巻のみ。国家安泰・万民豊楽と共に平和を切に願うところです。