天狗が作った高徳院の始まり、後に里見氏を攻める十倍の軍勢をはねのけた不動明王の隠された水晶の話
京都の山奥に天狗が住む日枝神社というたいそう立派な神社があったそうな
その山は読み方をかえて比叡山と呼ばれるようになって、100年がたった頃にはたいそうな天変地異に見舞われるようになり、ついには投天石と呼ばれる星が降ったそうな。
さて、住家を追われた天狗たちは投天石を懐刀で八つほど削り、もともと住んでいた東の国へ帰り、さらに豊かであたたかい山で修業しようと船でこの安房の国にやってきたのです。それから700年も生きた天狗のもとに、彼の里見八犬伝で有名な里見氏正木大膳の上時茂が幾つもの野山を越えてやってきました。
里見の時茂は「小国ながら平穏な安房の国にもいよいよいくさが起きる どうか民草を守ってほしい」と天狗に言った。
里見氏の中でも最も仁義にあつい時茂の懇願に天狗は心を打たれ、投天石で作った二つの水晶玉を授けました。北条氏に10倍の軍勢で攻められた時、天狗たちが作った不思議な二つの水晶玉は不動明王に姿を変えました。恐れおののく北条氏の兵たちは逃げ出します。こうして魔事無く北条氏を追い払った里見氏は、その水晶の玉を天狗に返して、隠し守ってもらうことにしました。
天狗がどうなったかは後のお話し。ただ、その水晶のありかは歴代の高徳院住職に伝えられ、今も現存しています。
そして、水晶のありかは形無き尊きものを知ろうとするものだけに住職が教えてくれることになっています。
天狗が不動明王に頼み、欲望の「無限の力」を御利益とする神様と闘い、その神様と観音様が結婚して福の神となったお話
時は1200年も前のお話し、そう、天狗がこの安房の国で修業を始めた頃のお話し。
天変地異にいくさ、さらには疫病が蔓延する京の都から、この安房の国にやって来た天狗たちは、どうやって村の人と仲良くなったのでしょうか。
当時は東のお山、今の高徳院の裏山に顔が象で、体が人間の姿をした欲神様、歓喜天が住んでいました。天竺のシバ神の息子で軍帥の位を与えられ、魔軍を率いて流れ着きました。
歓喜天様はゴマ油の香油風呂につかり、酒と甘いあんこと大根が大好きで、特に悪さをするわけではないけれども、東の海にある山に居座り、とにかく好きなように暮らしました。
いつも楽しそうに村人と親しみますが、とりわけ好色で助兵衛なので、容姿端麗で器量よしな女子には、金銀財宝を好きなだけ与え、また自分が気に入った若人は、小姓に据えて世間でもたいそう出世させてやったそうな。でも嫌いな者や歯向かう者らには七代先までたたるほどの、怒るとそれはそれは恐しい神様だったそうです。
村人らは二山奥で修業するようになった天狗たちに歓喜天様のことを話しました。
村人「すんげえ神様だぁけんども、勝手坊で困るときがあんなぁ(笑)」
(訳:凄くありがたい神様だけど、無邪気すぎて困る時があるなぁ)
天狗は鼻高々に「それはきっと邪神だなぁ。邪神はきっと戒めを知らないからじゃな。お不動様はたいそう丈夫な『戒めの縄』を持っているので、その縄で縛ってもらい出家させて、戒めを授ければよい!」と村人に偉そうに豪語します。
そして大護摩を焚き不動明王を拝みます。天狗が不動明王を拝むと、不動明王と魔軍を率いる歓喜天様の戦いが始まります。歓喜天様はようやく縛につきますが、さすがに欲を司る無限の力を持つ歓喜天様です。なかなか『戒めの縄』でも縛っていられません。いく度も繰り返される戦いは不動明王の眷属軍と歓喜天様の魔軍を巻き込み、天狗の予想に反して大戦争に発展してしまいます。
村人は「天狗様のせいで平穏だった村がおいねえ(ダメに)なっちまったよぉ」
と天狗を責めました。
得意げだった天狗は困り果て、大昔から千倉に住むという『千倉観音様』に頼もうと、二山奥の寺山まで会いに行きました。
天狗「某と者! 京は都、比叡の山から下った天狗とそうらい!」
(訳:私は京の都、比叡山からやってきた天狗でござぁ〜い!)
「民草に平穏を請われ、邪神の歓喜天を打たんとするも争いは大火に至った」
「どうか教えを請いたい、どうか願わくば馳せ参じ、能化給わんことをぉ!」
(訳:どうか教えを請いたい、導いてくれ!)
「お頼みもーす! おたのみもぉぉぉーす!!」
と大きな声で叫んで、京から持ってきた投天石でこしらえた菊の御門が入った石のかけらを一つと、銀色に磨き上げた二つの投天石のかけらを千倉観音様にお供えして拝みました。
すると千倉観音様があらわれて
千倉観音様「謹み敬まって白して言さく 天変地異によって、いくさが多き京の都からやってきた御方よ 如何なる金剛力と雖も万事に剛力を以ってのみ臨み、智慧と戒めを授けんとするが誤りなる哉」
(訳:謹んで申し上げます。天変地異のため、戦争ばかりしてきた京都の都からやってきた御方よ どんなに強い力を用いたとしても、力だけで智慧と戒めを授けようとするのは間違いなんじゃないかなぁ?)
千倉観音様「甲乙某 あい 承ってそうろうぉ」
(訳:この戦争について、私が承りました!)
とおっしゃり、
観音様は二つの銀かけらを左手に持つ蓮華の花に乗せました。
すると観音様はたちまち美しい女性に姿を変えたのです。
美しい女性となった観音様は、歓喜天様のもとへ向かいます。歓喜天様はすぐに戦いをやめるほどに観音様に惚れ込み、すぐに嫁にとることとなります。
そしていよいよ初夜を迎えます。
千倉観音様は「仏教徒になら、すべてを捧げる誓いを立てています。」と話しました。
歓喜天様は「喜んで、仏教入門の手ほどきを請う」と言うので、千倉観音様は天狗から預かった一番大きい菊の御門が入った投天石を一つ歓喜天様に授けます。さすがに賢い歓喜天様です、一晩のうちに仏教の神髄を悟りました。
仏教の神髄にふれた歓喜天様はこうおっしゃいました。
歓喜天様「我は今まで『欲』という無限の悪しき力を持って生まれたとばかり思うとったが、そもそも聖も邪も、悪も善もない、全てが本来は清らかな聖じゃったのじゃ 全ては願いをいかに立て、いかなる行いを成そうとするかにあるのじゃ 」とおっしゃり、無限の欲の力を大いなる欲として「大欲」と改め、名前も歓喜天から聖天と改めて観音様に万民豊楽の誓願を立てました。
歓喜天様は「大欲を得るは、是清浄なる哉 善い哉 善い哉 大安楽」
(訳:欲望を転じて志を起こすことは、この上なき清らかなことだ、あぁ、気持ちがいいなあ、楽しいなあ、大安楽だなあ)
とおっしゃり民草の志や商人の大願を叶える福の神となって強大なお力を喜んで民草のために使い、村人に建ててもらった社で観音様と末永く暮したそうです。
その社の周りではいつも子供たちが遊ぶようになり「しょうでんさまぁ」と親しみをこめて呼ばれるようになりました。
聖天様に酒を供えれば強者のぞろいの眷属を得て、あんこを供えれば災難を退け福を呼ぶ、二股の大根を供えれば良縁に恵まれ、夫婦円満・子宝にも恵まれ、子孫繁栄の御利益にあずかり、ゴマ油の香油風呂を焚けば商いは大財を成し、どんな願いも無限の力(大欲)で助けてくださるそうです。
さて、鼻っ柱を折られた天狗はというと・・・
天狗「争いばかりが続く京の都に住んどったので、『智慧の刀と戒め』が要と考え、邪を払わんと修行に明け暮れこの地に流れ着いたのだが、ワシはまだまだ未熟じゃった。この豊かでおおらかな安房の村人たちは神と邪神に分別もつけずに暮らしとった。聖天様のように、邪神とワシらが呼ぶ神々も、慈愛と慈悲を覚えれば、誓願を立て大願を生む。無限の欲が大願に化ければ、栄達に至り、功を成す。聖天様を邪神などと呼んどったのはワシだけじゃった。ワシは人が好いになった。安房の国が好いになったわ。」と言って、この社が立てられた東の山を聖天山と名付け、聖天様に渡し、二山奥の寺山に根久保高徳院を建て、時々村人に智慧をかして、川口村を守るようになったそうです。
夢のお告げで光る龍が龍燈を掲げ続ける洞窟に虚空蔵堂をつくった話
村人が海の近くにばかり住むようになった時のこと、深く自分の未熟さに反省をした天狗はいつまでも山奥に住んでいたわけではありません。どうしたかというと、今から500年前の午年の日に、人化の法を用いて人間となって出家し、源心という僧侶となり根久保高徳院の住職となって立派に民草に分け入るようになっていました。
それを聞いた里見氏正木大膳の上時茂(以下、時茂)は、籠を降りてひざまづいて何度も教えを請おうとします。
時茂「永遠とも思えるほど長き天狗の寿命を捨て、弱き人間となってまで民草に分け入るのはなぜじゃ」と尋ねます。
その時天狗であった源心はただ一言、「捨ててこそ」とおっしゃいました。
時茂は「何と尊いことじゃ」と涙を流して源心に感銘し、いくさで里見氏を救ったご恩があるので、(一話参照)恩返しにと聖徳太子の余仏 里見氏国宝の虚空蔵菩薩像を高徳院にお祀りしました。
時は流れ、天狗だった源心も老い衰えたある夜のことです。長髪を両耳に結った、まるで飛鳥か平安時代の子どものような姿をした人が源心の夢枕に立ちます。
「我はながらくこの地に龍燈を掲げた龍であり、虚空蔵菩薩そのものでもある。されど村人はその龍燈をかかげる大穴に気が付かん。その東の祠に我を祀れ、さすればその祠に我は龍燈を掲げ続けようぞ。東の祠に日の出前に来れば我の姿が見られるであろう」
「そこに明けの明星を拝む護摩堂をつくれ、おぬしがそこで京の都から持ってきたあと二つの投天石に智慧と福の力を授けよう。残り二つの智慧が福をもたらす秘法を村の民草に説けば、我はこの村に五穀豊穣をもたらし海は豊漁となるであろう。永く永く万民豊楽の利益を施そうぞ」
「『南無福智満虚空蔵菩薩』と一遍唱うれば福と智慧を授かろうぞ」
「おぬしには寿命があろうと、丑年と寅年の善女には我が子を宿らせようぞ」とお告げがあった。
源心は驚きおののき、東の祠をようやく探しあて、その朝日の美しさに驚いた。
その祠へ目掛けて海から河口川が伸びていて、日の出と共にその川を朝日が光る龍のように駆け昇り、たちまちに祠の奥まで光が差したではないか。
「根久保高徳院は二山も奥の寺山にあるが、土地が隆起し、民草もさらに東の海に住すようになったので、虚空蔵菩薩も民と共に宿を遷せ、と云う事じゃな」
と悟り、時茂と共に村人と力を合わせ今の虚空蔵堂を祠の中に建て、里見氏から龍光山高徳院と名付けられました。後に源心の弟子らがさらに東側に観音堂を建て、それが今では高徳院本堂となったとさ。
さて天狗の源心と半生を共にした時茂は、源心に弟子入りして高徳の名を授かりました。高徳(時茂)は、源心が元旦に水行をとり、寝ずに初日の出まで龍燈を拝む背中を支え、毎年毎年村の若人らと共に水行の井戸水を汲みました。欠かさず正月は里見氏を代表して参拝し、晩年も年頭の文を送った。また、毎年の節分には、句会を開いて村人を招き盛大に祭りを行い、村人も毎月13日には「お籠り」を開き、このお話を子々孫々に言い伝え祈りをささげた。今でも2月3日の節分祭は、多くの人で賑わう川口区の祭礼となっている。
安房の国はとりわけ誇り高き民族でありながら、おおらかな人々が多く、今でも天狗の源心が京都から持ってきたといわれる投天石は高徳院の住職が知るそうです。・・・高徳院の伝説がもっと知りたいという方は、是非ご参拝ください。